数秘相関学

数秘相関学 家元 菅野宣子 があなたの名前と生年月日から人生の流れを読み解きます。

自己紹介

赤面症で人の前で話せなかった私 衝撃的な母の発言

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今日からしばらく私のことを書いていきたいと思います。


私は3人姉妹の真ん中で雪の降る日に生まれました。

父も母も男の子が産まれると信じ込んでいて

私が女の子でとてもがっかりしたそうです。

その話は何回も聞かされました。



私は子供の時は、ひとり遊びが好きで家でお人形遊びを

したり、絵を書いたり、本読んだりするのが好きな

大人しい女の子でした。

友達と遊ぶのが嫌いなわけではないけれど、

誘われれば遊ぶという受け身な子でした。

幼稚園の年長さんの時には、

先生に

「外で遊びなさい。」と言われ、

私は絵本を読んでいたいのにと心の中で思っていました。


でも先生が強く言うので仕方なく

外に出て、誰もいない砂場で一人で遊ぶ


というような問題児でした。


母は、いつも先生に呼ばれ私のことで悩んでました。

私は一人で遊ぶのが好きで楽しいのに周りの人は


わかってくれませんでした。



幼稚園の先生で一人だけ私のことをわかってくれる

優しい先生がいましたが、


私が卒園して、小学校に通うことをとても心配してくれていました。


その先生の優しい眼差しは今でもとても心に残っています。


小学校1年生になり、学校に通う時にその幼稚園の前

を通っていくので、時々先生が

「のぶちゃん、頑張って行ってるの?」

と優しく話しかけてくれていました。


小学校に入って1年生の時の担任の先生は女の先生でしたが

とてもきつい厳しい先生でした。

またまた母は呼び出され先生に言われました。


「この子はちょっとおかしいです。人の前で話ができません。


 テストはできるのに人の前で話せないのはおかしいです。」


私の前で母に言っていました。

母はとても悩んで習い事を色々させて人の前に

出ることをさせようといました。


ピアノを習わせて、発表会で演奏する。

コンクールに出たりもしました。


でも性格は変わるものではありません。


それに加えて病気がちで、授業中よく熱を出して

母によく迎えに来てもらっていました。


熱が高くても辛いことを担任の先生にも言えず

休み時間になるまで我慢して

顔が真っ赤で周りの人が気づいてくれるまで保健室にも

いけないでいまいした。


その時の小学2年生の時だったのですが、

担任の先生が、とても優しい先生で、


調子が悪かったのね。気づいてあげられなくてゴメンネと

言ってくれました。

そのことがとてもうれしくて幸せな気持ちになったことを

とても強く覚えています。



母は健康で病気がちな私のことが理解できず


なんでこの子は病気ばっかりするの


と愚痴を言っていたのをよく覚えています。




なにか栄養がたりないのかしらとプロテインなど

色々な健康食品などを食べさせたりしてくれました。


母は私のことが理解できず、悩んでいました。




小学3年生の時に母に言われた一言が一番辛かったです。


それは 母が私がおなかにいることがわかった時に

おろそうかと思った

ということを言われたことでした。



私はそのことがショックで、


人生ってなんだろう、なんで生まれてきたんだろう

ということを、ずっと考えてきた気がします。



母はきっとなにげなく言ったことで覚えていないと


思いますが、私にとってはとても衝撃的で

ずっと忘れられない言葉になっていました。


そのころから占いにはまっていき

どんどん自分の前世はなんだろうとか

本気で白魔女になりたいなどど考える

妄想少女となっていきました。


西洋占星術、姓名判断、人相学など色々興味を

持ちました。


姓名判断をしてみると、最悪の内容で衝撃を受けました。

短命で両親との縁も薄く、何をやってもうまくいかない。

という結果にまたまたショックを受け、母を責めることを

してしまいました。


名前で私があまり悩むので、両親は


私のことを相談に行ってきたようです。


その結果は

この子は自分の人生を切り開いていくから大丈夫です

との結果でした。


信じらませんでしたが、そのときは納得したのを

覚えています。

その後中学生になった私がどんどん変わっていくことに

なります。




私が占いなど不思議なことにはまっていったのには

母の言葉がいつもキーになっています。

インパクトのある出来事が人生を変えていくきっかけを

作っているということです。

考えてみるとあの一言が原因で自分が変わっていった


などということが後になってわかるということがありませんか?


私の健康と美しさへのあこがれは小さい頃からの思いでした。






次回に続きます(^O^)




自分に自信がなくニキビ肌だった私を変えた母の一言

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前回の続きです。

まったく冴えない中高生を過ぎ、

ちょうど二十歳ぐらいの時だったと思います。

私は敏感肌、プラス ニキビ肌でずっと悩んでいました。

街を歩けば、美容部員さんに呼び止められたことも

何回もあります。

「あなたこの肌どうにかしなきゃ!」

と言われ、お店に連れて行かれ

化粧品のセットを買ってしまうという経験も

数回ありました。

ですが、なかなか肌は改善されず、

自分でも気にしていた時なんですが


母に撃沈される一言を言われました。


「あなたみたいに汚い肌の子見たことないわ!」


と言われました。


とても自分のお母さんの言葉と思えませんでした。


その衝撃的な一言がきっかけとなって


私は美容に興味を持ち、自分の肌の改善へと

向かっていくのでした。


子供の頃から占い好きの私ですが、私の姉が

名前に詳しくて、私のことをすごく心配してくれていました。


早く結婚せんとあんたは危ないからって言ってました。

私も健康になりたいのと、今の自分から変わりたい


との思いもあり、早く結婚しようと思っていました。


ちょうどその頃法事があり、父が仕事のつ都合で行けないので

代わりに行ってくれないかということで、祖母の法事に


行きました。


そして今の旦那さんと出会い結婚することになるのですが


たまたま旦那さんも旦那さんのお父さんの代理で来ていました。


祖母の法事だったので祖母が会わせてくれたのかなぁと


思いました。




その後結婚してから、仕事を辞め専業主婦をしていました。


そんな時に訪問販売で化粧品のセールスの方が来て


その人の肌がすごくきれいだったのでびっくりしたのです。


そしてそれから私の肌がメキメキときれいになっていきました。


毎日マッサージをして定期的にパックをして、

2週間に一度エステに通いました。


3ヶ月もすると見違えるようにきれいになっていました。


久しぶりに実家に帰った時に妹や母もびっくりして


「綺麗になったねぇ」

と顔をじっくり見て言われました。


その頃、まわりの人からも言われていたのでとても


嬉しかったのを覚えています。


生まれたから


綺麗ねなんて言われたことなかったので・・・・・笑



久しぶりに会った人にも、綺麗になったねと言われ


自分の人生がぱぁっと明るくなったような気がしました。


でもきっかけは母の言葉だったんだなぁと後で気がつきました。



その後私は、自分自身がエステをする人になりました。


家を建てて引越しをしたので、

美容の仕事は7年ぐらいで辞めました。


そこから私は健康への関心が深まっていったのです。


家を建てたのは主人が長男で両親と同居するためで

二世帯住宅でした。


主人の両親は山の中、高原に住んでいたので

ほんとにすごく田舎で今ではもう考えられません。



引越しをしてから、体調が悪く、疲れから

腎盂炎になったり、アレルギー性気管支喘息に

なって苦しむこととなりました。


引越しが悪かったのかと母は心配していました。


喘息になってしまい、夜が眠れないことがよくありました。


大人になってからの喘息は治らないと聞いていましたが


病院に行っても対処療法で、発作止めの薬をくれるだけで


病院に行っても病気は治らないことを感じました。



もうこうなったら体質改善して自分で治すしかないと思い、


娘もアレルギー2世で病気ばかりしていたので


医学博士のの本とか、民間療法の本、色々読みまくって


いいと言われりことを片っ端からやってみました。


3年ぐらいかかりましたが、喘息は完治しました。



しばらくして、その病院に行った時に

看護婦さんに


「病院変えられたんですか?」


と言われたので


「治りました」

と私が答えると、

えっ とびっくりした顔で私をじっと見ていました。


どこに行くにも発作止めがなくては心配で出かけられなかった


私は完治したことが嬉しくて仕方ありませんでした。


でももともとアレルギー体質だったので花粉症は


その時には治っていませんでした。



花粉症を脱出したのは、もっと先になりました。


今では、私子供の頃病気がちだったのと言っても


だれも信じてくれないぐらい健康になりました。


克服したのは、他にも原因不明と言われた、偏頭痛に


十代の頃からの腰痛、冷え性、肩こり などです。

小学校の時に母に

「あなたは更年期の人みたいだね」

と言われたこともあります。


その時は意味がわかりませんでしたけど・・・笑



その後どんどん元気になって行く私でした。

お姑さんにも結婚したばかりの頃は

高熱を出して、

さんざん迷惑もかけましたが


「あんた、だんだん元気になるねぇ」


と言われました。





ちょうどその頃 栄養委員になる人がいなくて

義母に

「困っとるからあんたやってあげたら」

言われ、引き受けることにしました。



栄養委員さんは町の仕事で、2年間 勉強させてもらって


2年間 奉仕をします。


主には保健婦さんと、栄養士さんのお手伝いで

町の乳幼児の検診の時におやつを作ったり

紙芝居を作って読んだり、町のイベントに参加したり

独居老人の方にお弁当を作って配ったりしました。



その頃町の保育園で働いていたので、栄養委員で

抜けてもいいと園長先生に言ってもらえたので引き受けました。


保育園での仕事は園児の給食とおやつを作る仕事です。

私は0歳児の離乳食も担当していました。


おやつは全部手作りで、作りたいものを作らせてくれたので

楽しかったし、なにより自分の子供の様子が見れるのが

うれしかったです。


遠足は3歳未満の子のお守りでしたがなつかれて

可愛くて楽しい仕事でした。





その2年後私に思わぬ転機が訪れるのでした。


次回に続く


主人の転勤・・・愛知県での生活

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保育園で働いてちょうど2年目の夏の出来事でした。

突然の主人転勤の話

愛知県岡崎市へ家族で引っ越すことになりました。

引越しまで1ヶ月とタイトな日程の中



私は小さい頃から絵を書くのが好きだったので

講談社のイラストコンテストに応募していました。

そのタイミングで名古屋の講談社の女性の方から

突然電話がありました。



今度倉敷に行くから絵を数枚描いてきてということでした。


私は日中仕事をしているので、夜子供を寝かしてから

夜な夜な絵を書いて、たしか3枚ぐらい描いて持って行きました。

ドキドキしながら、倉敷の市民会館に行ったと思います。


その女性はキャリアウーマンという感じでとても行動的で

活発な感じの素敵な女性でした。


私が絵を描いて持ってきたことをとても褒めてくださいました。


そしてその描いた絵を見て、

今どんな仕事をしているのかと聞かれ

保育園で食事を作っていると話すと


なんでそんなことやってるの。

美術に関係の仕事をしないとダメだよ



と言われました。

美術館でもなんでもいいから美術を関わる仕事

をするように強く言われました。


そんなこと言われても、山の中に住んでいるし、子供も小さいし

そんな仕事ありません。


と答えると

そうだよね。


そこで

でも今度愛知県の岡崎市に引っ越すんです

と言いました。


そうしたら

だったら名古屋には仕事があるから探しておいてあげる

と言われました。


私はまさか私に仕事を探してくれるとは思っていませんでした。


そして引越しが無事に終わり、数日たったある日

講談社の人から電話がありました。

電話があったことにまず驚きました。

スペインに行ってて連絡が遅くなったということでした。


私は岡崎が名古屋と離れていて子供も小さいので

両親の助けもないので働くのは無理だなと思っていたので

仕事は今はちょっと無理だということを伝えました。



ほんとに私のために仕事を探してくれたことに

感激してしまいました。

そこで、私は自宅で絵を続けると伝えました。

そうしたら

2年間がんばりなさい。2年したらイラストコンテストに

入選できるから

と言われ、

私はその通りにしようと心に決めました。


そしてそれから2年後、2度目のコンテストで

入賞し、東京、名古屋、大阪、での展示と

名古屋での表彰式に招待され、

講談社のあの女性の言ったとおりだったなぁと思いました。


それから目標を決めて達成するということが

できるようになっていきました。

目標をロックして、イメージするということでした。


そしてその次の年も入選して、

イラストックといって

官公庁や業界に配るイタストレーターを紹介するカタログ

への掲載依頼が来ました。

イラストックへの掲載は私の目標で

自分が載せて欲しいと思っても、依頼がないと

載せてもらえないのでまさか依頼が来るとは

思っても見ませんでした。


私はもう舞い上がり、目標を達成したことで

嬉しくてたまりませんでした。


そして掲載ページに載せる絵を何点か描かないと

いけないので、頑張って描いたことを覚えています。


でも私はそこで目標を失ってしまったのです。

その頃私は自分のホームページを作って

絵を掲載していたので、ネットでイラストレーターの友達が

何人かできました。

全国で集まった仲間で原宿でグループ展を

することになり、毎日チャットで打ち合わせをして

次の年の夏にグループ展を開催することができました。

一人で原宿に行って道に迷って大変でしたが

私にとってはとても貴重な体験でした。



なぜかそれから、絵を描くことにだんだん興味を

失っていきました。

今でも絵は好きで、描いてみたいという気持ちもあります。


その数年後、またまた転機が訪れるのでした。

未来の自分が夢に出てくる

突然、私の家を訪ねてきて

現在の自分と話をするという夢でした。


その時の会話はとてもよく覚えています。

未来の私が訪ねてくるのはその時1回だけでした。



そして絵を描くこととまったく違う仕事を始めることと

なるのでした。


つづく

派遣社員となってから

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転機が訪れました。

それはまた主人の仕事の関係でした。

主人の勤めている会社の関連している

大企業が不祥事を起こし、

ボーナスがカットされることになりました。

ちょうど長女が高校入試

 

どうしたらいいのか悩んでいました。


長女は私学に行きたいとのことでしたが

その時の状態では厳しいことでした。



私はその時のためにパソコンを独学で勉強していました。


そのきっかけは、お昼寝をしていたときに、メッセージを

受け取ったからです。




絵を書くことで収入を得られる人はほんのひとにぎり


私の実力は平凡なものでした。そのことは分かっていたので


私はすぐにでも収入を得るために


派遣社員の道を歩むことに決めたのでした。




初めはなんでもしました。

単発のものでもなんでもやりました。


経理のシステムのデーター入力

大手スーパーの調査員

カーナビの声の仕事

デパートの婦人服売り場のサッカー


など


そのうち長期の事務の仕事の紹介がありました。

初めは商社の営業事務でした。

もともと営業事務の仕事を独身の時にはやっていたのですが。

ブランクが長くて最初大変でした。

子供が小さいので残業のないところを希望していました

面接の時には残業はないとのことでしたが、

そんなことはなく締め日と月末は残業でした。


信頼関係も薄れ、半年で終了しました。

そのあとは自動車関係の製造業の一般事務

短期の仕事でした。


引継ぎは3日でしたが

なんとかやりこなしました。


そこで仕事を気に入られ、次長は私を残したいと

思い、違う部署へ移動になりました。





そんな時に生産技術部の事務の引き継ぎが

失敗して、引き継ぎを受けた人が
会社に出社しない

という事件がおこり、社内
はその事で部長会議が

行われたり、明日からどうするかで大騒ぎでした。



私は同じ生産技術部でしたが試作部だったので

関係ないと思っていたのですが、


部長会議で白羽の矢が私にささりました。


私は会社側と派遣会社側から頼み込まれ


ほんとは引き受けたくなかったのですが、


断りきれず、

引き継ぎ1日という最悪の状態で部署を

移動することになったのでした。


ここから、私のパターンが続くのでした。



次回へつづく







次々と続くパターン

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引き継ぎもままならず、気分は最悪でした。

でも引き受けた以上やらなくてはいけません。


弱音のはけない私でした。


マニュアルは整備されているものの、書類が毎日


どんどん山のように溜まっていきました。


100
人ぐらいのフロアに事務は3人

生産技術部の事務は私一人です。


一つの書類を片付けるのに関連する人に聞きまくり

やっていくと時間がすごくかかるわ、電話は鳴るわ

もうどうにもならないと思い、年末年始の休みを

返上して出社し、書類の山を片付けたのでした。


なんとか危機を脱出し、業務の改善提案もし、

私なりに満足したため、その仕事が急に

つまらなくなり、2年で終了することに決めました。





そのあとはコールセンターのまとめの仕事、

自動車販売会社でしたが、合併して本社が移動に

なることになったので、通えなくなるので終了となりました。




そのあとは大手繊維会社の環境技術センターの



営業事務の仕事、パソコンの設定などの仕事をしました。




ある日、伝票のミスで桁を一桁間違えて請求したことが

発覚し、相手は大企業、専用伝票の金額を間違えたとのことでした。


そして、それは決算の気をまたいでからわかったので

取引先の企業さんもどうするかを話し合いたいので

来てくれと連絡がありました。



普段は私がしている仕事なので、私のミスだと

勝手に判断され、女子社員が私に相手先の企業に行くように

と言ってきたのですが、


私は自分が桁を間違えるなんて信じられませんでした。

そこで伝票の控えを調べてみると、私の休みの日で、

その女子社員の人の筆跡でした。


そこで、その女子社員のの人に伝票の控えを見てもらい

濡れ衣を晴らすことができました。


その女子社員は、時々桁を間違えて請求したことが

あったのです。


でもみんなが私の間違いだと決めつけたことにショックを

受けました。



女子社員の人は小さい子供さんがいて、突発で休まれることも多く


私は一人で3人の仕事をやらなくてはいけない日もありました。



パソコンの設定で一人で残業することも時々あり、

雑用もどんどん押し付けられ、だんだん嫌になり

終了したいと思うようになりました。



そんな時に小学校の運動会で友達に

FP
の資格を取らないかと誘われて

自宅で勉強してFP3級をとりました。


そうしたところ、金融の事務の仕事の紹介がありました。

信用金庫の保証会社で、初めは土地と建物の

評価の仕事でした。

一緒に入った人が3ヶ月で辞めることになり、

次の人が入らないなぁと思っていたら



突然、今日から経理やってくれと言われました。



簿記の資格はありますが、



実務経験はありませんでした。



前から経理の仕事がしたかったのですが、



派遣会社からの紹介はありませんでした。

 



急にやりたい仕事ができることになったのですが、


引継ぎは10日もなく、またまた苦労をすることに


なったのでした。



そろそろ、気が付いてもいいようなものの


引継ぎが短く、無理難題を押し付けられる 


というパターンでした。

そのあともどんどんいろんな仕事をやらされることに

なるのでした。


次回へ続く


 


 


 


 


 


 


 

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